ヨーロッパの養蚕が壊滅
さて、幕末になると養蚕が盛んだったヨーロッパでは微粒子病という蚕特有の病気が蔓延するということが起こりました。微粒子病にかかった蚕は、繭を作る前に死んでしまうので、生糸を採ることができません。困ってしまったヨーロッパの国々の仲買人の頼みの綱は、養蚕の発祥地である中国です。しかし、中国は清朝末期の時期で、当時アヘン戦争前後の混乱から落ち着いて生糸を生産できる環境ではなく、ヨーロッパからの生糸需要に応えることができませんでした。いよいよ困ったヨーロッパ人は、中国よりほんの少しだけ東側にある日本に目をつけました。日本でも幕末から明治初期の混乱はありましたが、ヨーロッパからの生糸需給をチャンスと捉え、国の基本政策として生糸産業に力を入れました。
殖産興業と養蚕業
また、明治政府は隣国の中国がアヘン戦争でヨーロッパ諸国から酷い扱いをされているのを見て、同じ事態に陥ることの無いよう、国力をつける必要性を痛感しました。外国からの武力圧力に対抗するためには、日本もある程度の軍事力をつけなくてはなりませんが、軍備には莫大な資金が必要ですし、外貨を稼がなくてはなりません。そこで明治政府が眼をつけたのが生糸生産でした。幕末には日本全国に養蚕と製糸の技術が広がっていて、蚕の餌となる桑の木の植生にも適している気候であることも幸いでした。生糸は日本国内にあるものだけで生産できる素晴らしい商品でした。
生糸は輸出の花形
明治政府は明治5年(1972年)、上質な生糸を生産するための工場として富岡製糸工場を造り、本格的な生産に乗り出しました。また、富岡製糸工場で製糸技術を学んだ人間が、これに続き各地でできることとなる製糸工場で教える役割を果たすことで、日本の製糸産業は質量ともに中国を凌ぐまでになって行きます。生糸輸出の始まった万延元(1890)年の総輸出品目における生糸の割合は65.6パーセントにも達し、それ以降毎年70パーセント前後で推移して行きます。生糸は輸出品の花形となり、日本の国造りを支える重要で中心的な産業となりました。