遥か遠くの地で生まれた絹糸が、長い時間をかけて日本に届き日本独特の和服文化が出来上がりました。そして、和服の華である振袖ですが、今では成人式の定番となっています。振袖は成人式という晴れがましい場面に本当に相応しい衣装ですね。振袖の原材料である絹糸に関して、世界の至る所で色んな方の努力や葛藤が見られました。そして、幕末から明治の一時期ではありますが、日本のシルクロード(絹の道)と呼ばれる道で、多くの人が生糸を運ぶことで、新しい国造りの一翼を担っていました。
鑓水商人
八王子市南端の、町田市に接する地域に鑓水という地名の場所があります。地元の方には、八王子バイパスの鑓水インターチェンジがあるところという言い方がピンと来る方も多いと思います。鑓水との名前の由来ですが、大栗川の源流部にあたり湧水が大変豊富でした。 そのため、斜面に槍のように尖らせた竹筒を打ち込んで飲料水を得ていました。この取水方法が「槍水」と呼ばれていて、「槍」の字に「鑓」の字が当てられるようになったようです。鑓水地区は、丘陵地で平地が少ないために農作物が豊富に取れる場所ではなかったため、養蚕をする農家も多くありました。今でも、当時の養蚕農家の民家建築の様子を知ることができる「小泉家屋敷」が残っています。そんなひっそりとした寒村が、短期間ではありましたが、一躍日本史の表舞台に躍り出た時期がありました。滋賀県の近江の商人を”近江商人”などと呼ぶことがありますが、同様に鑓水の商人を鑓水商人と呼ばれていました。
黒船来航
嘉永6年(1853年)、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件です。なぜペリー一行は鎖国状態の日本にやって来ることになったのかですが、18C~19Cにかけての産業革命により、ヨーロッパ諸国は大量生産された工業品を輸出する国を確保する必要に迫られ、アジア諸国に通商を迫るようになりました。ヨーロッパ諸国に後れを取っていたアメリカは、アジア進出の足掛かりとしてまず日本を開国することで市場拡大を図ることを目指しました。その当時は、泰平の世がひっくり返るような大騒動で、江戸幕府は大変難しい判断を迫られてしまいましたが、長い目で見ると日本の近代化には避けて通ることのできないプロセスだったのでしょう。そして、二百数十年に渡る鎖国状態から少しずつではありますが、国が開かれて行くことになりました。
横浜開港
黒船来航(1853年)以来、紆余曲折を経て安政5年(1858年)日米修功通商条約が結ばれるに至りました。条約の主な内容は
①国内の数か所の港を開くこと
②外国人の住むことができる地域を定めること
③治外法権(外国人の犯罪を日本の法律で裁けないこと)
④関税自主権の不在(関税を日本側だけで決められないこと) でした。
①の開港する港は、箱館(函館)、兵庫、神奈川、長崎、新潟の五港の開港が取り決められました。しかし、神奈川はすぐそばに東海道が走っていて、多くの日本人が往来することから外国人との間でトラブルが発生してしまうのではないかと幕府は心配したため、神奈川ではなく横浜港を開港することにしました。幕府の懸念は、生麦事件(1862年)として現実のものとなっています。当時横浜は戸数百戸たらずの寒村で、主要な道路から離れていたため、港もほとんど整備されていませんでした。とにかく安政6年(1859年)、横浜港が開港となったため、港や道路が少しずつ整備され、やがて日本の海外貿易の拠点となって行きました。
②については、外国人遊歩規定が定められ、横浜から半径40キロの範囲を外国人が居留し移動できる範囲ということになりました。横浜から半径40キロの範囲の中に、鑓水商人の居る鑓水地区も入っていたため、日本の養蚕に興味のあった西洋人から鑓水地区が注目されるようになりました。考古学者のハインリヒ・シュリーマンや写真家のフェリッ クス・ベアト、スイス人の商人カスパー・ブレンワルドなどが、横浜から八王子に向け北上し、八王子宿や養蚕の様子などを旅 行記や写真に残しています。特に「ブレンワルドの幕末・明治ニッポン日記―知られざるスイス・日本の交流史」は、開港当時の横浜から八王子郊外の様子を知ることのできる書籍として残っています。