5000年前に中国でカイコガという虫から絹糸を取り出す(作り出す)技術が生まれました。それから長い時間と経路を辿り、日本人の文化としてすっかり定着している、成人式で振袖を着て成人になったことを祝う習慣が少しずつ生まれて来ました。「養蚕と絹糸」「シルクロード」と、ごく大まかにどのようなルートで日本に養蚕が、そして振袖の文化に発展して来たかについて見て来ましたが、”日本のシルクロード(絹の道)”と呼ばれた道がかつてあったことはご存じでしょうか?
ユーラシア大陸を東西に渡って続いていた本場シルクロードに比べると、距離も時間も規模も本当に小さなものですが、幕末の混乱期を抜け出し明治政府が日本を西欧型の近代国家にしようと目指した過程で、日本のシルクロードが果たした役割は決して小さくはありませんでした。また、現在多くの若い女性が憧れる振袖に繋がる本場のシルクロード、そして日本のシルクロードですが、どのようなきっかけで日本のシルクロードができたのか、どのような役割を果たしたのか、日本のシルクロード(絹の道)を概観してみようと言う特集です。
絹の道
横浜開港(1859年)以前は、鑓水商人と呼ばれた商人たちは八王子周辺の農家を一軒一軒周り買い集めた生糸を細々と売っていました。開港後は一転生糸の仲買人となり、買い集めた生糸を”浜出し(横浜へ生糸を売ること)”をすることで大きな利益を得るようになりました。開港前年(1568年)には、一俵(60K)53両だった生糸が、開港の年には5倍の241両に、8年後の慶応3年(1867年)には10倍の567両にまで跳ね上がったと言います。鑓水商人たちは、どこから生糸を買い入れたのでしょうか。最大の産地は信州(長野県)で次いで上州(群馬県)、甲州(山梨県)、それに武州(埼玉県)の生糸が加わり、浜出しを行っていました。さて、八王子に集まった生糸は、湯殿川を渡り、片倉から鑓水峠の道了堂、鑓水を通って多摩丘陵を越え、境川沿いに原町田を出て横浜に向かいました。このルートが八王子から横浜まで35キロほどの道のりが最短距離だったようです。昭和26年、地域の研究者・橋本義夫氏らを中心としたグループがこの最短ルートを「絹の道」と名付け、大塚山の入口に「絹の道」の碑が建てられることでこの名前が定着して行きました。「絹の道」と呼ばれるようになる以前は”浜街道”と呼ばれていました。
歴史の道百選
文化庁は、平成8年、古(いにしえ)より、人・物・情報が行き来し、歴史の舞台となって来た道や水路等を、日本の歴史や文化を理解する上で極めて重要な意味を持つに至るものとして位置づける作業に着手しました。歴史的・文化的に重要な由緒を持つ古道や交通関係遺産を「歴史の道」として指定し、その存在の認識を広めると共にその保存・活用を一般の方に呼びかけました。まず、全国各地の最も優れた「歴史の道」78か所を「歴史の道百選」として選定しました。その後、令和元年、新たに36か所の道が選定され「歴史の道百選」は114か所になっています。「浜街道)絹の道」は、平成8年の第一次選定で選出され、その歴史的価値が再認識されました。